劇場版サイコパス3、first-inspectorの考察をしていこうかと思います。
まずはネタバレなしの範疇にて。
映画を見て良かったところとしては、「殺人を繰り返している梓澤廣一(あずさわ こういち)の犯罪係数がなぜ上がらないのか?」について解が示されたこと、、です。そして、「ビフロストとは何だったのか?」について明確な答えが示されたことだと思います。
一方で消化不良だったところは、「常守 茜がなぜ拘束されているのか」に答えが示されなかったことです。
また、映像作品としてはアクションシーンが多めで、サイコパスのキャラクターが好きな方にとっては楽しめるものになっているかもしれません。
ここまでがネタバレなしの感想でして、ここからは多少のネタバレを含みつつの考察にいきたいと思います。留意したうえで、続きをお読みいただけますと幸いです。
1.梓澤廣一の犯罪係数が上がらない理由 と そのロジックに対する考察
ヒトコトで言うと、梓澤さんは「誰かを傷つけよう」という意図は有しておらず、「間違えると死ぬ」選択肢を用意しただけであるため、犯罪係数は上がらない…というロジックでした。(たぶん)
彼はすべての犯行において、必ず相手に「選択肢」を与えます。そして「相手が選択肢を間違えると死ぬ」ような仕掛けは作るものの、決して自らは手を下さない。「勝手に相手が死んでいく」という形を必ず採用することで、色相をクリアに保つことができたのでした。
セカンド・インスペクターの人を殺害するときも「選択肢を間違えるなよ…」とか言ってましたもんね。
ただ、このロジックには個人的には違和感があります。
第一に、「選択肢を間違えれば誰かが死ぬ」仕掛けを作る時点で、ほぼ確実にヒトは「この行為によって誰かが傷つく可能性がある」という予想を持つことになります。
少なくとも、自らの行動が誰かを傷つける確率を高める結果になることを、認識せざるを得ない訳です。
「殺害の仕掛けは作ったけど、その仕掛けにハマるか否かは被害者次第だから、自分は一ミリも悪いことをしてない」みたいな心理状態になることは極めて難しく、「いやー、自分の行為によって殺害確率が30%くらい上がってるよなー」くらいは認識せざるを得ません。
「そういった認知が心理に与える影響を、シビュラシステムが読み取れなかった」というロジック展開は、少し苦しい気がしました。
第二に、犯罪係数というものは「誰かを傷つけようという意図の有無」ではなく「今後のシビュラ社会に悪影響を及ぼす度合い」を数値化したものであるハズです。
作中にて「潜在犯」と呼ばれて自由を拘束されている人たちは、「誰かを傷つけよう」という意図を有しているために拘束されている訳ではありません。
サイコパス1期に出てきた雑賀譲二さんなどは典型的な例ですが、彼が潜在犯として捕まっているのは「シビュラ的な社会」にとって都合が悪い思想の持ち主であり、野放しにすると革命運動などの火種になるからであると推察されます。「誰かを傷つけよう」という意図の有無は、犯罪係数とは無関係なハズです。
そう考えると、梓澤廣一さんはあろうことか「公安局ビルの乗っ取り」や「シビュラシステム総本山への侵入」を企てています。「シビュラ社会に悪影響を及ぼす度合い」は大きいことが容易に推察され、彼の犯罪係数は極めて高い数値が出るのが自然なのではないでしょうか…?
作中で何度も「シビュラ的」という言葉が出てきますが、その言葉の解釈が制作側の人と違うのかもしれません。
このあたりのロジック展開が、個人的にはあまり理解できませんでした。
2. 劇場版全体のコンセプトに対する考察
劇場版サイコパス3の全体を通じて、これは「シビュラシステムが統治するディストピア社会を肯定的に受け入れた作品」なんだなと感じました。
もともとサイコパスという作品は、「現代における中国のような監視社会の進化版」を描いた作品だと捉えられます。
中国は多種多様な民族が暮らしており、うまく統治しないと内戦などが勃発する可能性が高いエリアです。それを何とか統治するために、共産党が「こういう考え方が正しい」という道徳を作り、それを国民に守らせることによって、最大多数の最大幸福を達成しようとしています。
そして共産党の主義・思想に従わない人たちは、「サイコパスにおける潜在犯」のように自由を束縛していると言われています。さらには町中に監視カメラを張り巡らし、反乱の目を潰すように水面下で動いていたり、SNSをコントロールしたりしているのです。
これらを「自由の侵害だ」と非難することは容易いですが、「最大多数の最大幸福」を願った行為であるために簡単に批判できるものではない、とも思います。
しかし、最大多数の最大幸福のためとは言え、「誰か(シビュラ / 共産党)が決めたルールに背く行為を起こす可能性が高いが、まだ犯罪を犯していない潜在犯」を拘束するのが本当に正しいのか?という気持ち悪さは強く残ります。
サイコパス1~2期の常守 茜は、シビュラシステムが最大多数の最大幸福のために現時点では必要であることを認めつつ、シビュラに頼らない社会システムの在り方を模索し、葛藤する存在として描かれていました。サイコパスシリーズは、管理主義型の監視社会を超越した姿を探求するお話であったはずです。
そういう観点において、サイコパス3のストーリー展開は、上記のような論点を避ける方向性へ向かってしまった感があり、個人的には残念だなと思いました。
3. 潜在犯の犯罪係数の低下が示唆すること(今後のシリーズ展開予想)
ただし、個人的にサイコパスシリーズ3を通じて評価したい点としては、これまで「潜在犯」とされてきた人たちの犯罪係数の低下が示唆されていることです。
なぜ潜在犯の犯罪係数が低下しているのか?
これは「六合塚 弥生さん」や「唐之杜 志恩さん」のような、これまで潜在犯とされてきたキャラクターの内面に変化があった訳ではなく、シビュラシステム側の評価方法 / 思想が変化したから犯罪係数が低下した、、と捉えるのが自然です。
恐らく脚本家の方は、「シビュラシステムが自由主義と管理主義の双方を両立するような、人々を導くアーキテクチャ」となっていく未来像を描きたいのだと推察されます。
人々の自由を担保しながら、うまくナッジを効かせて管理する。行動経済学でノーベル賞をとったセイラー教授がいうような「リバタリアン・パターナリズム」を実現するための基盤に、シビュラシステムがなっていく…といった未来像を提示する作品に、今後のサイコパスシリーズはなっていくのではないでしょうか?
もしそうなのであれば、サイコパス4では「これまで潜在犯とされてきた人たちが次々と解放されていく展開」となっていくことが予想されます。
そして「常森 茜の問題」とも言うべき論点を巡って、神であるシビュラシステム側が葛藤し、最終的には「人々の自由意志」の力を認めていく、、みたいな展開になるのではないでしょうか。
恐らく大事になるのは、「自由と管理が両立するアーキテクチャ」について説得力のあるイメージを提示することであり、それができるならば素晴らしい作品になりえると思っています。
長くなってしまいましたが、映画「サイコパス3劇場版 first-inspector」の考察記事でした。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました!!!
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