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【考察】「天気の子」の結末への違和感(難しい言葉を使わずに)


馬場です。

映画「天気の子」の感想、考察について書いていこうと思います。

べた褒めする訳ではないので、その点だけご留意いただけますと幸いです。特に本作品が大好きな方のご気分を害される可能性がありますので、それでも良いという方だけご覧ください。

また、「天気の子」および「君の名は」のネタバレありで書いていきますので、未視聴の方はお気を付けください。

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「天気の子」を見て最も驚いたのは、「君の名は」と根底を流れる価値観やメッセージ性が同じだと感じられたことです。

以前の記事でも書いたのですが、「君の名は」という映画では瀧くんという主人公がヒロインの命を救うために過去改変をします。「過去を改変し、ヒロインの命を救い、彼女を結ばれてハッピーエンド」という映画です。

これは大きな転換で、これまでの映画作品、小説作品などでは「過去を自分の都合のいいように改変しようとするやつは、悪者として描かれる」というのがこれまでの常だったかなと思います。有名どころでいえば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ですかね。無名どころで言うならば「テイルズ・オブ・ファンタジア」とかもそうです。

主人公側が過去を改変する物語でいえば「シュタインズ・ゲート」などもありますが、この物語では過去を改変してしまったことに主人公が強い罪悪感を覚え、あとで後悔する物語です。責任感、罪悪感に駆られる物語です。

ただ「君の名は」という作品においては、主人公の瀧くんは過去改変に対して罪悪感を感じる描写はなく、ただ純粋に、ひたむきにヒロインの三葉ちゃんを救おうとする姿勢が描かれます。その裏側で、過去改変によって不幸になってしまった人もいるかもしれませんが、そこに目を向けたり、気にする必要はないというスタンスが取られます。


この「とにかく自分の幸せにフォーカスすれば良いんだ!」というスタンス、根底となる価値観、メッセージは、「天気の子」にも色濃く受け継がれているように思えます。むしろ「天気の子」はそのメッセージを強く押し出し、多くの人に伝わるように描いた作品とも言えると思います。

というのも「君の名は」では、過去改変には「ヒロインのみならず、多くの人命が救う」という大義名分がありました。しかし、今回の天気の子では「ヒロインのために、東京という都市そのものを犠牲にする」という意思決定を主人公がします。

最終的には「ヒロインを救うために東京を水没させる」という道を主人公は選択するのですが、これは水害や土砂災害によって多くの人命が逆に失われたり、誰かがせっかく築いてきた財産が失われてしまったりするなど、明確な被害を被るヒトが発生することを意味します。

このように「天気の子」では過去改変を行う大義名分が存在せず、「ヒロインの命のために、自分の幸せのために、知らない誰かの不幸を受け入れる」という意思決定を主人公が行ったことが明確にされているのです。

 

個人的には「とにかく自分の幸せにフォーカスすればいいんだ!」というスタンスは悪くはないと思います。ただ「他人を殴っていいのは、自分が殴られる覚悟がある奴だけ」じゃないかと強く思います。

現実世界にて「自分の幸せにコミットして、見えない誰かを不幸せにする」ような行為をすると、いつか絶対に仕返しされます。皆さんの中にも、ご経験がある方がいらっしゃるのではないでしょうか。

つまり主人公とヒロインは決して「大丈夫ではない」訳です。誰かを殴ったのだから、常に仕返しの恐怖に脅かされることになるます。(いや、事件発生からの3年間でヒロインが誰からも仕返しされておらず、無事であったことをもって、「バレなかった。大丈夫」と捉えているなら正解かもしれません。そういう文脈でとらえると、主人公がすごい腹黒に見えてきますが笑)

「そういった仕返しされるリスクを受け入れた上で、一定の葛藤を抱えながら誰かの不幸に目をつぶり、自分の幸せにフォーカスする」、もしくは「自分の意思決定により被害を被る人の状況を踏まえた上で、社会的な合意が取れるようなシステム設計、ルール改変をリードする」というのが好ましい生き方なんじゃないかなと個人的には思います。

このようなスタンスをとると、この物語のエンディングは強い葛藤を孕んだものになるか、自らの意思決定による利害関係者の存在を受け入れた上で、皆が豊かになれるような新しいルール・システムの構築へと主人公が奔走する姿が描かれたものになります。

それがエンタメ作品として面白いかは分からないですが、「各人が自分の幸せにフォーカスして、他者を殴る」というのは映画「バトルロワイヤル」の時代(2000年)の価値観であり、「歪みに葛藤しながら新しいルール・システムを構築しようともがく」というのが「ライアーゲーム」なり「銀魂」なり「魔法少女まどか☆マギカ」であると捉えるならば、そっちでも世間的には受容されるような気もしています。

そういう意味では、今回の「天気の子」および「新海誠監督のメッセージ」が世の中に、日本社会にどのように受け止められるかは、とても気になるところです。「世の中は狂ってるんだから、それぞれが自分の幸せにフォーカスすればいいんだ!」という価値観が受容されるか、「それでも、やっぱり他の人に迷惑をかけちゃダメだよ」という価値観が受容されるのか。

 

前者を悪く言うならば「殴り合いの社会」であり、後者を悪く言うならば「日本的で、出る杭は打たれる社会」と言えるのかもしれませんが、その二項対立を超えて「出る杭がシステム変革、ルールチェンジをリードする社会」へと進化すればいいのになと強く願います。「世の中が狂っているなら、苦しいけど自らの力で変えていこう」というスタンスですね。

 

そのためには、そういう姿を描いたエンタメ作品が絶賛され、国民共通の物語、つまりは神話になれば、日本社会のシステムユーザビリティを高めるよなと。。新海誠監督の作品の注目度や影響力を踏まえると、そんな物語だったら良かったのにな…と、個人的に期待してしまいました(すみません、、)

 

以上、「天気の子」の考察でした。最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

 


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1 thought on “【考察】「天気の子」の結末への違和感(難しい言葉を使わずに)

  1. 自分達の幸せを優先してるというのは解釈違い。
    見方が傍観者だからこそになっているのではと。
    元々おかしかった世界で誰かを生贄にして、生贄にされている事実も知らずに周りが幸せになっているというのが天気の子の陽菜さんが犠牲になった世界。
    傍観者からしたら「そんなの生贄になった奴が我慢しろよ」となるのは当然だけれども、当事者からしたら知ったことではないという話だと思ってる。
    勿論罪悪感も抱いて当然だけれども、それでも僕らは大丈夫だと。これからも変わってしまったこの世界で生きていくんだと。そういう話だと思ってる。

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