2020年4月に完結した「青のフラッグ」について、考察していく。
青のフラッグという作品は、LGBTをテーマとしたものだと思われがちだが、真のテーマは「ヒトはなぜ自由に、自分らしく生きることができないのか?」にあると考える。
なぜヒトは自由に、自分らしく生きられないのか?
なぜ「普通」という概念であったり、「周囲の同調圧力」に縛られて、うまく生きることができないのか?
このような普遍的なテーマを主題に据えているからこそ、幅広いヒトの心に刺さる作品になっている。
さらに言うならば、青のフラッグは「ヒトはなぜ自由に、自分らしく生きられないのか」のメカニズムを分析・考察した上で、「どうすれば壁を越えられるのか?」を模索している作品であると言える。
なぜヒトは自由に生きられないのか?
作者さんは、
ヒトが自由に生きられない究極の理由とは、「特定の誰かに好かれたい、自分を受け入れて欲しい」と願うからだ…と主張する。
例えば、好きな人ができたとする。しかし彼・彼女に好かれるためには、自分らしさを捨てて彼・彼女が望むような人物にならねばならない。
例えば、「クラスの人気者になりたい」と思ったとする。しかしクラスの人気者になり、その地位を守り続けるためには、クラスメイトが認めるような「人気者としての自分」を演じ続けなければならない。
オタク趣味などに興味があったとしても、クラスの人気者としての地位を守るためには、手を出すことができなくなるのだ。
このように「特定の誰かに好かれたい、自分を受け入れて欲しい」という願いを持った瞬間に、その「特定の誰か」の価値観によって自らの行動は制約を受けることになる。
これこそが、ヒトが自由に生きられない理由である…と作者さんは主張する(ようにマンガを読むと僕には読み取れる)
この主張は極めて正しいと思うが、同時に残酷な結論であると思う。
なぜならヒトは承認欲求を持つ生き物であり、「特定の誰かに好かれたい、自分を受け入れて欲しい」という願いは自然発生的に生じる。
そう考えると、「自由に、自分らしく生きることができない」という苦しみは、ヒトが宿命的に抱えなければならない苦しみであるということになるのだ。
どうすれば、自由に自分らしく生きられるのか?
しかし、自分らしく自由に生きられないのは苦しい。その苦しみを和らげる処方箋として、作者さんはアドラー心理学をひいてきたり、ニーバーの祈りをひいてきたりする。
アドラー心理学からは「自分の問題、他人の問題を分ける」という思想が援用されている。
曰く、自分の振る舞いに対して「他人がどのように思い、どのような感情を持つか」というのは、どうにもできないことなのだと。だから、自分の信じる最善の道を選ぶしかない。もし、それで好きな相手が自分を受け入れてくれなかったら、潔く諦めるしかない…と。世界は広く、時間は有限なのだから、次へ行けばよい(行くしかない)のではないか、、、と。
このようなスタンスを維持することが「自由に自分らしく生きる」ためのコツであると、作者さんは主張する(ように僕には読み取れる)
「ニーバーの祈り」というのは、下記のような言葉である。
神よ、変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
これも、この文脈においては先ほどの「アドラー心理学」と同じ意味合いを持つ。
他人の感情というのは、変えることができない。操作したり、支配したりはできないのだと。その事実を理解し、受け入れる知恵と冷静さを持つことが重要である、、と。
しかし、このとき問題になるのは「今、あの人が好きな自分のキモチに、どう対処したらいいのか?」という論点である。
自分らしく、自由に生きるためには、特定の誰かに固執しないことが必要になる。そこまでは分かる。
ただその一方で、だからと言って簡単に「今好きだと思っている人」を諦められないではないか、、と
「その矛盾にどう折り合いをつけていくのか?」が問題になってくるが、残念ながらそこはもう折り合いをつけるしかない。
頭にロジックを詰め込んで納得できたところで、心はラクにならない。心をラクにするためには美味しいものを食べたり、お酒をがぶ飲みしたりして、気を紛らわしていくしかない。
人間というのは良くできていて、時間が経つことによって心の痛みが癒されていくものである。
青のフラッグに、物足りなさを感じたポイント
しかし、青のフラッグを最終回まで読んだが「どうすれば自由に、自分らしく生きられるのか」に対する答えを半分しか提示できていないように思う。
例えタイチとトーマが両想いになったとして、彼らが感じる「生きづらさ」が克服される訳ではない。彼らはこれからも世間的な「普通」と戦い続ける必要がある。
「私とあなた」の共依存的な関係の中に引き籠って生きるならまだしも、それとは異なる自己実現を求めたとき、彼らは他の価値観を信じるコミュニティと交流しなければならない。つまり、大多数の「普通」の感覚を持つヒトから「気持ち悪い」と言われて生き続けなければならない訳だ。
そのような中で、「どうすれば幸せになれるのか?自分らしく、自由に生きられるのか?」に関する解が提示されないまま、物語が終わってしまったように思う。
確かに、そこから先の想像力は既存の知識では通用しない。少なくともアドラー心理学などの「自己の内面をどう変えるか」に関する知恵では通用しない。ただ既存の知識では通用しないからこそ、現代社会の大きな論点となっている。そういった論点に対して、一石を投じることができた作品では無かったように思う。
あえて否定の言葉を強めて言うならば、あの最終回の終わり方だと「タイチとトーマは共依存的な関係になり、いつまでも2人で静かに暮らしました」とも読み取れてしまう。それでは真の自由は得られない。時間の経過とともに、タイチはトーマに、トーマはタイチに縛れて生きることになってしまう。
真に自由に生きていくためには、固定的な関係に閉じるのではなく、コミュニティを流動的に渡り歩いていくようなスタンスが必要不可欠となるのではないか。新卒の時に希望した会社に終身雇用まで勤め上げるよりも、状況の変化に応じて柔軟に、そのとき自分がやりたいことができる会社を渡り歩いていく生き方をした方が、自由で自分らしい生き方ができるハズである。
「どのようなスタンスで臨めば世の中的な普通と戦い、自らが住みよい世界へ変えていけるのか?」に関する踏み込みがあれば、時代を代表する傑出した作品になった可能性があると考える。